この例えはそれほど間違ってなくて、TV版のカミーユには本当に、他人の決めた「戦いの道」を歩く以外の選択肢がなかった。カミーユの周りの大人はカミーユにパイロットとして上の命令に従うことを強要しながら、同時にニュータイプとして自分たちには出せない答えを出して、より良い未来に導いてくれることを暗に期待していた。カミーユが自分の意志で行動しようとすれば殴って修正して、フォウやロザミィを助けたいと言えば無理だから殺せと言って、エゥーゴの意思決定の場に関わらせることもなく、ただの一パイロットというポジションにずっと置いていたのに、それでも自分たちには出来ない「何か」をやってくれることを期待していた。
 その周囲の期待が分かるからこそカミーユは自分を殺してただの一パイロットに徹することも出来ず、戦いから逃げ出すことも出来ず、ニュータイプとしての自分の存在理由を見つけて、証明することでしか「殺してしまった敵」の命に報いることは出来ないのだと思いつめ、「この戦争を終わらせればきっと許されるのだ」という本人も信じきれない希望に縋って戦い続けるしかなく、そんな状況じゃあ壊れて当たり前だという話で、それでもTV版Ζでカミーユを追い詰めた後悔と反省があったからこそ、ΖΖでジュドー達に戦艦とモビルスーツぽんとやって「どの道を選ぶか」から自分たちで決めさせて行動させるなんて無茶をやれたのだとしたら。ニュータイプとして強い力を持っていても幸せにはなれないんだとカミーユ自身が証明したからこそ、その後の時代にカミーユより強いニュータイプが生まれなかった。つまりそれはニュータイプがちゃんと「人として」幸せになれる方向に進化していることの証明だと仮定すればカミーユの犠牲は無駄ではなかったし、そもそもΖΖのラストで回復してるんだからもうそれでいいじゃん。と納得していた私にとっては、その辺の事情を何一つ勘案していないあの劇場版は蛇足以外の何物でもなかったなと。

 TV版のカミーユにとっては、この戦いが終わってもまた新しい戦いが待っている(かもしれない)というのは恐怖でしかなかった。デギンが死んでギレンが立ったように。ギレンが死んでもミネバを擁したハマーンが立ち、ジャミトフが倒れてもシロッコが立ったように、敵のトップを倒しても首が挿げ変わるだけで戦いは終わらないということはカミーユも気付いていた。それでも戦いの道しか歩むことを許されなかったカミーユは、人に戦いを強要する者を倒せば戦いは終わるのだと、そう信じて前に進むしかなかった。

 TV版Ζ第37話、ダカールの日でカミーユは戦闘の意思はないと繰り返していたけど、あれは別にあの時だけじゃなくて本当はいつも言いたかったことで、敵と殺し合う以外の道もあるんじゃないかとずっと考えていたのだけどその道は見つからなくて、「戦闘が目的ではない」あの戦いでようやく、「敵と話をする」ことが許されて、それでも自分の言葉が伝わるかどうかとか、必要以上に戦闘を回避しようとして怒られたらどうしようとか内心ドッキドキしていたので、その不安を隠すためにいつもより強い口調になって「なんか偉そうでむかつく」カンジになっちゃって、(視聴者にも敵にも)あんまり真意が伝わらなかった訳ですが、それでもカミーユはあの戦闘で敵を殺す気はなかったし、戦う気はないと言い続けたし、それで自分が殺されてももういいやってくらい思いつめて、敵に銃を向けられても逃げることも反撃することもせずにいたら、「カミーユの言葉が届いた敵が」「カミーユを撃とうとしていた敵を倒す」というカミーユがまったく望んでいなかった結果になって酷く傷ついた訳ですが、それを周りに打ち明けることもなく、悟られることもなく、ベルトーチカと普通に会話もしている異常性が(視聴者にも味方にも)あんまり理解されてないのが悲しいところ。
 「殺してしまった敵の為に」祭壇を作るような子が、「戦いたくない」という自我を通したせいで敵の兵士に味方殺しをさせてしまってどれだけ傷ついたかを作中で説明せずに、ただ「察しろ」という演出方針はTV版Ζの特徴で、カミーユの心情に関して、ΖΖが「全部周りが口で言う」方向だったのと正反対に「全部状況描写で済ます」という、視聴者側に(カミーユみたいな子供に対する)知識と理解と観察力と理解するための努力と考察と一秒たりとも画面から目を離さず、一つのセリフも聞き逃さないような集中力を要求する酷いものだった訳で、「足して二で割れ」と言いたいくらい、ΖΖのカミーユの心情が分かりやすくて、Ζのカミーユの心情が分かりにくい原因が、「周りの誰もカミーユの心情を理解していないから説明のしようがない」っていう、カミーユが壊れた原因と同じものだったというね。
 たまにカミーユの心情に言及するキャラ(フォウとのことに言及したミライさんや恋をしてるんでしょうと言ったエマさん)はいても、それは悩みの本質とはずれたものだったし、カミーユは基本的に相手に合わせるし自分の傷を隠したがる子だから、ずれたまま会話は進んで結局カミーユの一番深いところの傷には触れられないまま会話が終わるから視聴者はカミーユの悩みはフォウのこと「だけ」だと勘違いをしてしまう。周りがそれしか理解していなくて話さないから。
 しかし実際にはカミーユが「敵を殺すこと」に迷いを持って揺れ動いていたことは地球に降りる時からずっと物凄く丁寧に、言葉の端々、展開の節々で描写されていた。ただその丁寧さが、視聴者が「カミーユみたいな子供の気持ちが理解できる」ことと「ストーリー内の描写からカミーユの心情を推察できる」ことを前提にしたものだったから、その二つを満たしていない人には理解し辛いものだった。
 なんでそんな分かりにくい描写になっているのかというと、富野監督自身がカミーユみたいな子供の気持ちが分かるし、皆分かるもんだと思っていたから。むしろちょっと分かりやすくしすぎかなとわざと分かりにくくしていることすらあるくらい、富野監督は分かりやすく描写しているつもりだった。
 第23話、ムーン・アタックの殺してしまったパイロットの為に祭壇を作ったところがその最たるもので、あそこでエマさんにその行為を否定されなかったことでカミーユの心が再起不能なくらい折れたことは誰にでも分かることだと思ったから、その前後にエマさんの頭にブリーフが! とか香港土産のホロテープとかインパクトの強いコミカルなシーンをわざと持ってきてあのシーンのシリアスさをわざと薄めて重要なシーンに見えないようにしたんですよね。それでも十分伝わると思っていたから。
 エマさんも軽く流すしカミーユ本人もなんでもない風に振る舞うしその後も女性が戦場まで出てきていることは異常だとかいう方に思考を飛ばすしそれ以降祭壇について一切触れないしで、ほんと、軽く流されて印象に残りにくくなっている訳ですが、カミーユの心情を理解するにはあそこは本当に重要な場面だった訳です。
 そしてダカールの日の戦闘も同じく、カミーユが本当に戦う以外に道はないのだと思いつめることになった大事なシーンだったのですが、あの回には他に見所がいっぱいあって、あの戦闘も割と軽く流されてて、あそこで兵士はただ上の命令に従っているだけなんだから個人個人で分かりあえても意味はない。兵士に戦いを強要する存在を倒さなければ戦いは終わらない。ニュータイプの自分ならそれが出来るはず、いや、しなければいけない。そうしなければこれまで殺してしまった敵にも、自分を守るために味方を撃った敵にもそうして殺された敵にも顔向けができないと、そういう悲愴な思いを自分の中にだけ溜め込んで、平気な振りをしていたカミーユのことを誰も理解せず、たまにぽつりと漏れ出た言葉すらも誰も拾わず流されていた訳で、味方に殺されたくないとか、俺は人殺しじゃないとか、ニュータイプに出来ることは人殺しだけみたいだとか、そういう物騒だったり自己矛盾してたり悲観的だったりした言葉の意味をちゃんと理解して、深く踏み込んでくれる人がいれば、カミーユの心情はもっと分かりやすかったし、もしかしたら壊れずにすんだんじゃないかと私は思います。



 Ζ覚書はとにかくざっとでもいいからカミーユの心情を理解するための足掛かりになるポイントを並べようという意図で書いたので、あんまり深く突っ込んでなくてあれを読めばカミーユの気持ちが分からない人にもカミーユの心情が理解できるように書けているかどうか全く自信がないのですが、そもそもどう説明すればカミーユの気持ちが分からない人にもカミーユの心情を分かってもらえるのか私には分からないので、今回も上手く説明出来てるかさっぱり自信がないのですが、カミーユの言動はその時その時の感情の発露であると同時にちゃんと「線」で繋がっていて、理解するためのポイントを丁寧に線で繋いでいけばちゃんと分かるような描写は十分にされているので、そこのところを理解して、一つひとつのシーンや発言に注目するのではなく、それを言った背景やそこまでのシーンの積み重ねをちゃんと見て分析すれば、ほんっとお腹痛くて見てられないくらい痛々しいカミーユの心情が手に取るように分かって、なんでただアニメ観てるだけでここまで胃の痛い思いをしなければならないのかと文句の一つも言いたくなること請け合いなので、まぁ分からない方が良いような気もしますが、カミーユ好きな私としては出来れば分かってあげて欲しいと思うのです。

 例えば第20話 灼熱の脱出の最初、ゆったりとしたBGMだけ掛かってアウドムラが飛んでる様子やブリッジの様子、カミーユの部屋の様子が映されて、アムロが部屋のドアをノックしてカミーユに声を掛けるその前に画面から消える、ほんの数秒しか映らない、カミーユの部屋の窓にカーテンが掛かっていたあのシーン。
 Ζ覚書ではあそこをアムロに対して居留守を使ったことと合わせてカミーユの拒絶を表していると書いたけれど、ただそのシーンだけを見てそれが分かるはずもなく、あのシーンの意味を理解するには、

・まず作品外の知識として、心を閉ざした子供が部屋の窓を閉め切った上でカーテンを掛けたりして部屋の中を覗けなくしたり、元々は鍵のついてなかったドアにわざわざ鍵を取り付けたりして誰も入ってこれなくしたりすることは良くあることだと理解している必要があって、その上で
・アウドムラの各部屋の窓にはカーテンなどついていないしカーテンレールみたいなものもないことをそれまでの話の中でちゃんと見て覚えていて(この回のラストでアムロとベルトーチカがいる部屋を見ても分かるのでそっちでもいいです)
・カミーユが周囲に対して心を閉ざし始めていることに気付いていて
・この一話前の第19話、シンデレラ・フォウでミライさんを見送らずに部屋に籠ったのはこれ以上他人にフォウのことに触れられたくなかったからだと気付いていて、その上で
・部屋の窓から輸送機に乗って離れていくミライさん達を見送っていたことを覚えている必要があるのです。

 窓にカーテンを掛ける理由については作品外の知識が必要で、なぜあのタイミングで窓にカーテンを掛けたのかを理解するには前話であの窓からミライさん達を見送っていたことを覚えている必要があって(ここも最後にちょろっと出てくるだけの見逃しやすいシーンですね)、あの窓から「外」の人と目があったことでカミーユはあそこを「外」との接点だと認識して、そこを閉ざした。もう既にミライさん達は飛び立っていて、あの窓から輸送機が見える(アウドムラに輸送機が離着艦する)頻度もそう高くないはずなのに、それでも窓に覆いを掛けずにはいられなかった。つまりカミーユの周囲に対して心を閉ざす度合いがより一層深まっているということが、前話までのカミーユの心情をちゃんと追っていれば分かって、そのすぐ後の狸寝入りのシーンと合わせて、20話の開始早々ワンツーパンチを食らわされる胃の痛いシーンなのです。
 19話の最後はカミーユがずっとミライさん達の乗った輸送機を窓から見てて、あぁ、やっぱりカミーユも見送りに行かなかったこと悪いと思ってるのかな、窓からでも見送れて良かったね。と、その時点ではほのぼのシーンだと思うのですが、その次の回で早速カーテン掛けてたのを見て、違うやん! これ悪化してるやん! とそっこー認識を改めなければならないと言う、2話も使ったくせに両方合わせても10秒もないような見逃し上等の仕込みシーンなのです。
 そういう視聴者の理解力と洞察力に期待する演出を延々やってるのがTV版Ζなのです。
 分かりにくいにも程があるって話ですよ。

 つまり、TV版カミーユの心情を作中の描写から理解するにはTV版カミーユみたいな子供の気持ちを理解していることが大前提で、その上でその時点での心理状態をカミーユの対外的な言動から推し量り、カミーユの部屋の様子などを手掛かりに内面を推し量り、その両者を突きあわせて自分の推察が間違っていないかを常に検討し、修正していく作業が必要なのです。
 ちょっと何言ってるか分からないと思いますが、私もテレビで観てて、誰も彼もがそんな真剣にアニメ観てると思うなよ? と思いながらそういう見方をしていたので、そういうものだと思って見てください。
 そういう見方をしていたからこそ思い入れも強くて何十年たってもまだこんな風に色々書いたりしているのだから、TV版Ζは私にとって特別な作品なのです。



 それで、TV版カミーユみたいな子供の気持ちはどうやったら分かるようになるのかですが、私は自分自身がそういう子どもだったりそういう子供と接した経験があったりしただけで別に勉強した訳ではないので分かんないです。
 多分児童心理学とか戦場心理学とか、最近だと外向型(HSS)のHSP(HSC)とかについて調べれば分かるんじゃないかなと思います。
 助けてが言えない子供とか抑圧された子供とか夏休みが嫌いな子供とか、戦闘機や戦車で戦う時と生身で戦う時の殺人に対する意識の違いとかそういう感じの。
 HSPに関しては、確かにカミーユと特徴被ってるんですが、本当に5人に1人もHSPがいるならカミーユの気持ちを理解できる人もそれくらいの確率でいるんじゃないかと思うと、やっぱ違うんじゃないかと思わなくもないので、参考程度に留めておくのが良いと思います。
 ただそういう付け焼刃の知識でTV版Ζを見て本当に理解できるのかも分からないし、分からない人向けの上手な説明の仕方も分からないので、ほんともう、誰かちゃんと分かる人にしっかり説明して欲しいなーと思います。
 私はあんまり人の感想読むほうではありませんが、たまにネットでカミーユが壊れた原因が分からないから最終話の数話前から観直してみたとか、そういう話を読むと、あの辺はただ単にずっと隠していたものが隠しきれなくなって表面化してきてただけでそこに原因はないからそれじゃ分からなくて当然だと思うと同時に、でもそういう人が1話から観直したとしても、TV版Ζのあの表現方法じゃやっぱり分からないんだろうなとも思って、なんとか分かりやすく説明したいと思いつつ、実際書くまでに長い時間が掛かってそれでもやっぱり分かりにくいんじゃないかと悶々としている訳です。

 で、そんな無茶な表現手段を中途半端に引きずっている劇場版Ζも本来なら分かりにくいもののはずなんですが、あっちはTV版のカミーユの気持ちが分からない人にもカミーユの気持ちが分かるように「劇場版のカミーユ自身がTV版のカミーユの気持ちが分からない人」になっているので、TV版のカミーユの気持ちが分からない人ほど劇場版のカミーユの気持ちが分かりやすいという逆転現象が起きている訳です。
 だから劇場版のカミーユは、表面上はTV版のカミーユと同じような言動をして、同じような境遇にいたとしても、TV版のカミーユと同じ悩みは抱えていないし、同じように傷ついてもいない、全くの別人なのです。
 そして、そんな劇場版のカミーユが精神崩壊を回避したからと言って、それは全くTV版のカミーユには当てはまらないし参考にもならない、無関係な話なのです。



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